宝くじ売りの老人が歩く——ベトナムの非公式セーフティネット
ベトナムの路上を歩く宝くじ売りは推定数万人。1枚10,000VND(約60円)の宝くじが、年金のない高齢者の最後の収入源になっている。福祉の隙間を埋める非公式経済の構造。
この記事の日本円換算は、1USD≒155円で計算しています(2026年4月時点)。為替は変動するので、現地通貨(USD)の金額を基準にしてください。
ホーチミンのカフェで座っていると、5分に1回、宝くじの束を持った人が声をかけてくる。多くは高齢者だ。手に握った宝くじの束から1枚ずつ抜いて差し出す。1枚10,000VND(約0.4USD、約60円)。
断ると笑顔で次の席に向かう。この光景はベトナム全土で見られる。
宝くじ売りの経済構造
ベトナムの宝くじ(Xo So)は国営だ。各省・市が独自の宝くじを発行し、抽選は毎日行われる。年間の宝くじ売上は推定100兆VND(約60億USD)を超え、地方自治体の重要な財源になっている。
宝くじ売りは卸売業者から1枚あたり8,000〜8,500VNDで仕入れ、10,000VNDで売る。1枚あたりの利益は1,500〜2,000VND(約9〜12円)。1日100枚売れれば150,000〜200,000VND(約9〜12USD)の収入だ。
月収にすると約270〜360USD。ベトナムの最低賃金(ホーチミン市で月4,960,000VND=約300USD、2024年)と同程度。肉体的に厳しいが、雇用契約も資格も不要で、翌日から始められる。
年金なき社会の現実
ベトナムの社会保険制度(BHXH)は1995年に整備されたが、加入者は労働人口の約35%に留まる(2023年、ILO推計)。非公式セクターで働く人や、制度施行前に退職した高齢者には年金がない。
宝くじ売りの多くは60代〜80代の高齢者で、年金を持たない層だ。子どもがいれば仕送りを受けることもあるが、それだけでは足りない場合に宝くじ売りが「最後の仕事」になる。
政府の高齢者向け手当は月360,000VND(約22USD)で、これだけでは生活できない。宝くじ売りの収入は、この手当と合わせてギリギリの生活を支えている。
買う側の動機
ベトナム人が宝くじを買う動機は「当たるかもしれない」だけではない。「この人から買ってあげたい」——つまり疑似的な寄付行為だ。
1枚10,000VNDは、カフェのアイスコーヒー1杯分にも満たない金額。当たらなくても構わない。宝くじ売りの高齢者に10,000VNDを渡す行為は、施しではなく「商取引」の形を取った福祉だ。
受け取る側のプライドを傷つけない。これがベトナムの非公式セーフティネットの巧みさだ。
消えゆくのか、残るのか
ベトナム政府はオンライン宝くじの導入を進めている。スマホで購入できるようになれば、路上の宝くじ売りの需要は減る。
だが完全に消えるとは考えにくい。宝くじ売りは「売る人と買う人の間の人間的な接触」で成り立っている。スマホの画面からは、あの笑顔は出てこない。
ベトナムのカフェで宝くじ売りが来たら、1枚買ってみるのもいい。60円で、ベトナム社会の断面が見える。