ホーチミンの高層ビルの足元に寺がある理由——都市化が飲み込めなかったもの
ベトナムの急速な都市開発の中で、なぜ仏教寺院(パゴダ)だけは取り壊されずに残るのか。不動産開発、信仰、政治が交差する都市の風景を読む。
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ホーチミン1区の高層オフィスビルの裏手に、築100年を超える小さな寺(パゴダ)がひっそりと残っている。両側をコンクリートの壁に挟まれ、入口は路地の奥。線香の煙が細く立ち上っている。
ベトナムの都市開発は容赦ない。2010年代のホーチミンでは古いフランス植民地時代の建物が次々と取り壊され、タワーマンションやショッピングモールに変わった。しかし寺だけは、不思議なほど残っている。
壊せない構造
ベトナムの寺院が都市開発に呑み込まれない理由は、信仰の力だけではない。
土地の所有構造。 ベトナムでは全ての土地は国家が所有し、個人や企業は「土地使用権」を持つ。寺院の土地は多くの場合、宗教法人(宗教委員会管轄)に使用権が帰属しており、一般の不動産と同じルートで開発用に転用するには複雑な手続きが必要だ。
政治的コスト。 1963年、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権が仏教徒を弾圧し、僧侶ティック・クアン・ドックが焼身自殺で抗議した事件は世界を揺るがした。この歴史的記憶がベトナム政治に残っている。寺院を強制的に取り壊すことは、政府にとって政治的リスクが大きい。
コミュニティの拠点。 寺院は近隣住民の冠婚葬祭の場であり、旧正月(テト)の初詣先であり、子どもが仏教の道徳教育を受ける場所でもある。住民の反対を押し切って取り壊すことの社会的コストが高い。
「包む」開発
取り壊せないなら、包み込む。ホーチミンの開発業者が選んだのは、寺院を残したまま周囲を開発する方法だった。
その結果、奇妙な風景が生まれた。30階建てのマンションの敷地内に、赤い屋根の寺院が残っている。商業ビルのエントランスの横に、金色の仏像が鎮座している。上から見るとコンクリートの灰色の海の中に、寺院の瓦屋根だけが赤い点として浮かんでいる。
日本でも再開発地域に神社が残ることはあるが、ベトナムの場合はスケールが違う。2000年代以降の爆発的な開発ラッシュの中で、数百年の歴史を持つパゴダが次から次へとビルに「包まれて」いった。
旧正月に見える本当の力関係
テトの時期にこれらの寺を訪れると、普段は目立たない小さなパゴダに長蛇の列ができている。線香を手に持った参拝者が路地から溢れ出し、周囲のビルの住民もスーツ姿のまま手を合わせに来る。
ベトナムは社会主義国であり、公式には無宗教を推奨してきた歴史がある。しかし実際には国民の大多数が仏教的な慣習を日常に取り入れている。先祖崇拝、お盆(ヴーラン)、テトの参拝——これらは「信仰」というより「文化」として根づいている。
社会主義国で宗教施設が都市の中心に残り続けるという矛盾は、ベトナムという国の二重構造を可視化している。公式のイデオロギーと、人々の生活の間にある距離だ。
「古いもの」の値段
最近、ホーチミンの不動産市場で面白い現象が起きている。古いパゴダの近くの物件は、同エリアの他の物件より価格が高くなる傾向がある。風水(フォンスイ)の観点から「寺の近くは気が良い」とされるためだ。
開発業者にとって寺院は「邪魔な障害物」だったはずが、いつの間にか「付加価値の源泉」に変わった。壊せなかったものが、結果的に資産になる。都市開発の歴史の中で、こういう逆転は稀だ。
ホーチミンの超高層ビルの足元で、線香の煙が揺れている。この風景は、ベトナムの都市が効率だけでは測れないものを抱えていることを、何も言わずに教えてくれる。
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