壁の内側に街をまるごと作る——ベトナムの大規模タウンシップが生む新しい階層
ベトナムの都市郊外では、住宅・学校・商業施設を一体で囲い込んだ大規模開発が進む。この閉じた街が住民に何を与え、何を切り離しているのかを考える。
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ハノイやホーチミン市の郊外を走っていると、突然風景が切り替わる場所があります。雑然とした路地と屋台が続いていたのに、ゲートを一つ越えると、街路樹が整列し、歩道が広く、車が信号を守っている。
同じ都市の中に、別の設計思想で作られた区画が埋め込まれている。ベトナムの大規模タウンシップ開発です。
街を一括で作る
これらの開発は、住宅だけを供給するのではありません。高層住宅と戸建てに加えて、商業施設、学校、クリニック、公園、スポーツ施設をひとつの区画にまとめて建設する。
生活に必要な機能が、敷地の中で完結するように設計されています。買い物も、子どもの通学も、休日の過ごし方も、ゲートを出ずに済む。
都市計画の言葉では、こうした開発をマスタープランド・コミュニティと呼びます。一人の主体が全体を設計するので、道路の幅も建物の配置も統一される。既存の都市が長い時間をかけて積み上げた不揃いさが、ここにはありません。
なぜ需要があるのか
理由は、外の都市が提供できていないものを内側で提供しているからです。
歩ける歩道。バイクの音の少ない朝。緑地。子どもが遊べる安全な場所。冠水しにくい排水設計。これらは、既存の市街地では簡単には手に入りません。
静けさの中身も違います。外の街では早朝の街頭スピーカーが地区ごとに鳴り、路地の奥まで音が届く。計画された区画では、その放送網の外側にいることがある。朝6時に何の音で起きるかという、かなり具体的な差です。
つまり、この開発が売っているのは住宅ではなく、環境です。同じ広さの部屋でも、外の街にあるものと敷地内にあるものでは価格が違う。差額は環境への対価です。
経済学で言えば、公共財の私的供給です。本来は行政が提供すべき歩道や公園や治安を、民間が敷地内に限って提供し、その費用を住宅価格と管理費で回収する。
何が切り離されるのか
この構造には、当然ながら裏側があります。
環境が敷地の内側にしかないということは、外側との差が可視化されるということです。ゲートの内と外で、道路の質も、緑の量も、静けさも違う。歩道に低い椅子を出して商売をする余地も、内側にはない。管理規約が歩道の占用を許さないからです。この差は、そこに住める人と住めない人の差でもある。
社会学では、こうした囲い込み型の住宅地について、都市の分断を促す面が長く議論されてきました。ラテンアメリカや南アフリカ、東南アジアの各地で、似た構造の開発が同じ論点を生んでいます。
内側で育つ子どもは、外の街の雑然さを知らずに育つかもしれない。それが良いことか悪いことかを、外から来た人間が断ずるのは難しい。ただ、そういう選択がなされているという事実は見ておく価値があります。
在住者にとっての選択
日本人駐在員や家族連れの在住者にとって、こうした区画は現実的な選択肢のひとつです。
利点は明確です。生活の予測可能性が高い。子どもを外で遊ばせられる。管理体制が整っていて、トラブルの窓口がはっきりしている。日本語や英語が通じるスタッフがいる物件もある。
欠点も明確です。中心部から遠いことが多く、通勤時間が長くなる。価格が高い。そして、ベトナムで暮らしている実感が薄くなる。
数年の駐在なら前者を取る人が多く、長く住むつもりの人は後者を嫌って市街地を選ぶ傾向がある、という話をよく聞きます。どちらが正しいかではなく、何を優先するかの問題です。
通勤時間という変数
実務的に効くのは、通勤です。郊外の開発地から中心部のオフィスまで、朝夕のピーク時にどれだけかかるか。ベトナムの始業が早く終業も早い勤務時間に合わせると、7時前に家を出ることになる。この時間帯の道路状況は、日中の内見では体験できません。
内見は日中の空いている時間に行われることが多いので、実際の通勤時間は体験できません。可能なら、平日の朝に自分でそのルートを走ってみる。片道で30分違えば、年間で数百時間の差になります。
物件そのものの比較のしかたは、家賃だけでなく毎月の総額で並べるのが基本です。こうした開発地では管理費が高めに設定されていることが多く、その差額が「環境への対価」の実額になります。
学校の位置も同じです。敷地内にインター校がある物件なら送迎が不要になり、生活の設計が根本から変わる。住居選びが、実は時間の配分の選択であることに気づかされます。
都市が二層になる
ベトナムの都市は、これから数十年でこの二層構造がより明確になっていく可能性があります。計画された区画と、そうでない区画。両者の間に生活の質の差がある状態。
歴史を見ると、こうした二層構造は永続しないことが多い。外側の環境も徐々に改善され、差が縮まるか、あるいは内側が老朽化して差が逆転するか。どちらに転ぶかは、行政の投資と経済成長の速度次第です。
いま建っている真新しい街区が、二十年後にどう見えているか。ベトナムの都市に住むということは、その変化をリアルタイムで観測する席に座るということでもあります。
ゲートを越えるたびに風景が切り替わる。その切り替わりの鮮やかさは、たぶんこの時期にしか見られないものです。