シンガポールの猫問題——都市管理と動物愛護の間で揺れ続ける論争
シンガポールは長年「猫禁止」のHDB政策を維持しながら、地域猫の管理をNGOに委ねてきた。2021年の政策転換の背景と、猫を通じて見えてくる都市管理の矛盾を読む。
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HDBフラット(公営住宅)の廊下で、よく肥えた猫が日向ぼっこをしている。飼い主が誰かわからないが、明らかに世話をされている。シンガポールの住宅街でよく見る光景だ。
ただし2021年まで、HDBでは猫の飼育が正式に禁止されていた。つまりあの猫たちは「存在してはいけない存在」として、長年シンガポール社会に存在し続けてきた。
HDB猫禁止の歴史
シンガポールのHDB(Housing & Development Board)は長年、フラット内でのネコ飼育を禁止していた。公式の理由は「猫は自由に動き回り、廊下での騒音・臭い・毛の飛散が近隣の迷惑になる」というものだ。犬はサイズ制限付きで許可されていたが、猫は一律禁止という非対称な扱いが続いてきた。
この禁止が長年実効性を持っていたかというと、そうでもない。「隠れて飼っている人が大量にいた」というのが実態で、HDBへの苦情が来た場合に初めて問題になるという運用だった。
2021年、HDBはパイロットプログラムとして一部地区で猫飼育を試験的に解禁し、2023年からは本格的に条件付き許可へ移行している。
なぜ変わったのか
政策変更の背景には複数の要因がある。
動物愛護意識の変化: シンガポールの中間層を中心に動物愛護への関心が高まり、「猫を一律禁止する合理性がない」という世論が強まった。特にコロナ禍(2020〜2021年)でペットへの需要が増加した。
地域猫管理の現実: NGOのCat Welfare Society(CWS)は長年、シンガポール全土の地域猫(Community Cats)の不妊去勢・登録・世話を担ってきた。政府が禁止する一方で、実務的な管理はNGOに丸投げされていたという矛盾が批判を受けていた。
TNR(Trap-Neuter-Return)の実績: 捕獲→去勢→返還のサイクルで地域猫の個体数を管理するTNR手法はCWSが中心的に実施してきており、その効果が認知されてきた。
地域猫の現状
シンガポールの街中に「Community Cat(地域猫)」として登録・管理されている猫は数千頭規模とされている。ホーカーセンター、組合住宅の周り、公園など、至る所に猫がいる。
地域猫の管理はCat Welfare Societyが中心となり、地域ボランティア(Cat Feeders)のネットワークで餌やり・健康管理を行っている。
ホーカーセンターの猫については食品衛生の観点から論争が続いており、「猫がいると衛生的に問題」という意見と「ネズミを捕ってくれる」という意見が共存している。現実には猫を完全排除するのは困難で、黙認されている状況だ。
HDB新ルールの条件
2023年以降のHDB猫飼育許可の条件(参考)には以下のような要件が含まれる:
- 猫はマイクロチップ登録・不妊去勢済みであること
- 屋内飼育を原則とすること
- HDB側への届け出・登録
- 住戸あたりの上限頭数制限
ただし細部の運用は随時更新される可能性があるため、現在のルールはHDB公式サイトで確認することを勧める。
日本人駐在員・移住者への影響
日本から猫を連れてシンガポールに赴任する場合、以下の点を確認する必要がある。
輸入検疫: シンガポールのAVS(Agency for Animal Veterinary Singapore)の規定に従い、狂犬病ワクチン接種・タイターテスト・マイクロチップが必要。日本からの猫は比較的手続きが整理されているが、数ヶ月の準備期間が必要だ。
コンド vs HDB: 外国人が住むことの多いコンドミニアムは管理組合(MCST)のルールに従うため、HDBのルールとは別。猫OKのコンドも増えているが、管理組合によって異なるため事前確認が必須。
帰国時の逆輸入: 日本への帰国時に猫を連れ帰る場合、日本側の狂犬病清浄国ルールに従い、必要な手続き(マイクロチップ・抗体検査・待機期間)を踏む必要がある。計画は最低半年前から始めた方が余裕がある。
猫から見るシンガポール社会
猫の扱い方は、社会が何を「秩序」として定義するかの縮図だ。「清潔・整然・管理された都市」を国家アイデンティティとしてきたシンガポールが、管理しきれない猫たちとどう共存するかを長年模索してきた。
政策の変化は「禁止すれば解決する」という前提が崩れてきたことを示している。地域猫はシンガポール社会が「完全な制御」と「生き物の存在」の間で折り合いをつけようとしている、その最前線にいる。