カビとの戦いは負け戦だ——タイの湿度が住まいに要求する管理
熱帯の湿度は革製品も壁も本も等しく侵食する。タイの住居で起きるカビ・結露・虫害の構造と、諦めるべき戦線と守るべき戦線の切り分けを実務的に整理する。
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クローゼットの奥にしまっていた革のベルトを、二週間ぶりに取り出す。表面が白い粉を吹いたようになっている。指でこすると落ちるが、匂いが残る。カビだ。
タイで暮らし始めた人の多くが、最初の雨季にこれを経験する。日本の梅雨とは持続時間が違う。数週間ではなく、数ヶ月にわたって高い湿度が続く。9月はその真っ只中だ。
湿度は水と同じように「浸透する」
湿気を、空気の性質ではなく液体だと考えたほうが実態に近い。水位が高い場所に物を置いておくと、じわじわ濡れる。それが数ヶ月続く。
タイの雨季の空気は、日本の感覚での「じめじめ」を常時上回る水準にあることが多い。しかもエアコンを切った密閉空間では、空気が動かないぶん状況が悪化する。押し入れ、クローゼット、靴箱、締め切った寝室——空気が停滞する場所が、全部カビの培養器になる。
エアコンには除湿の役割もある。だから留守中にエアコンを完全に切ることは、電気代を節約する代わりに、部屋を湿度に明け渡すことを意味する。長期の一時帰国のあと、部屋の様子がひどいことになっていた、という話は在住者の間でよく聞く。
何がやられるか、順番がある
湿度に弱いものには序列がある。
最も早く落ちるのが革だ。靴、鞄、ベルト、財布。有機物で、表面に凹凸があり、栄養がある。カビにとって理想的な基質だ。次が紙と布。本、書類、写真、麻や綿の衣類。その次が木製の家具、そして電子機器の内部。
逆に強いのは、金属、ガラス、プラスチック、化学繊維。だからタイの住宅や家具に、日本より合成素材が多く使われているのは、趣味の問題ではなく耐久性の問題だ。
住居選びの段階でも影響が出る。低層階は湿度と虫の両方で不利になりやすい。窓が一方向にしかない部屋は風が抜けない。バスルームに窓や換気扇がない間取りは、水回りの湿気が部屋全体に回る。内見のときに家賃と眺望だけを見て決めると、あとで毎日の管理コストとして跳ね返ってくる。
内見で確認できることはある。クローゼットの扉を開けて奥の匂いを嗅ぐ。バスルームの天井の隅を見上げる。窓枠のパッキンに黒い点が出ていないか触ってみる。前の入居者が何と戦っていたかは、こういう場所に痕跡として残っている。物件選びの見方としては地味だが、家賃の一割ぶんくらいの価値はある。
諦める戦線を決める
ここで大事なのは、全部を守ろうとしないことだ。
日本から持ち込んだ革靴の高級品を、タイの湿度から完全に守るのは相当な労力がいる。防湿ボックスに入れ、乾燥剤を定期的に交換し、除湿機を回す。それだけの手間をかける価値があるものだけを守り、残りは現地調達の消耗品に切り替える。
これは戦線の整理だ。全方位を防衛しようとすれば戦力が分散して全部が抜かれる。守る対象を絞り、そこに資源を集中させる。大事な書類や写真はデータ化して物理的な原本を減らす。革製品は数を絞る。季節外の衣類は、詰め込まずに空気が通る形で保管する。
除湿機、防湿庫、乾燥剤、サーキュレーター。どれもタイで手に入る。導入のコストより、放置して失うものの合計のほうが大きくなる場面は多い。
エアコンの内側も同じ状況
見落とされがちなのがエアコン本体だ。内部は常に結露していて、ホコリが溜まり、カビが繁殖する。掃除しないまま使い続けると、部屋にカビの胞子を送風していることになる。
タイでは訪問クリーニングのサービスが一般的で、日本より気軽に呼べる価格帯にある。相場は業者や機種で変わるので直接確認が要るが、定期的に頼んでいる在住者は多い。エアコンの効きが落ちた、風が臭う、という段階になったら、それは掃除の合図だ。
呼ぶと、工具箱を積んだバイクで来て、ベランダにホースを引き、フィルターと熱交換器を外して水を流す。流れ出る水は最初、灰色に濁っている。この光景を一度見ると、掃除の頻度に対する感覚が変わる。こうした修理・整備の産業がタイでまだ生きている理由自体が、この国の経済構造の話でもある。
虫は湿気の後からついてくる
湿度の話は、そのまま虫の話につながる。湿った有機物があるところに虫が来る。排水口、シンクの下、ゴミ、そして水気の残る場所。
対策の順番も同じだ。虫を殺すことより、湿気と食べ物のカスを断つほうが効く。排水口の封水を切らさない、生ゴミを室内に溜めない、食品を密閉する。これらは虫対策であると同時にカビ対策でもある。同じ根から二つの問題が生えている。
生ゴミを溜めないという点は、タイのゴミが分別されないまま出される仕組みとも噛み合う。分別の義務がない代わりに、室内に長く置いておく余裕もない。
気候に住まいを合わせる
日本の住まい方をそのままタイに持ち込むと、無理が出る。日本の家は冬の寒さと夏の湿気の両方に対処するように作られていて、その前提が違う。
タイの住居管理は、乾かすことに集中すればいい。空気を止めない、水を残さない、有機物を放置しない。この三つで大半の問題は起きにくくなる。
カビとの戦いに完全勝利はない。だが被害を管理可能な範囲に抑えることはできる。最初の雨季で白い粉を吹いたベルトを見たときが、住まい方を切り替えるタイミングだ。