「子どもは2人まで」を国が取り下げた日——ベトナムが出生率1.91で方針を180度変えた理由
2025年6月、ベトナムは長く続いた「夫婦の子どもは1〜2人」という規定を撤廃した。合計特殊出生率は2024年に過去最低の1.91。産むなと言っていた国が、産んでほしいと言い始めるまで。
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2025年6月3日、ベトナムの国会常務委員会は人口令(Population Ordinance)を改正し、「夫婦は子どもを1人か2人まで」という規定を削除しました。
何人産むか、いつ産むか、何年空けるか。それは夫婦が決めることになった。改正は同日に施行されています。
その3か月前には、共産党の中央検査委員会が、3人目を産んだ党員を処分する規定も外していました。国家と党の両方で、数十年続いた「産みすぎるな」という号令が止まったことになります。
1.91という数字
方針転換の背景にあるのは、出生率の下がり方です。
保健省人口局によると、合計特殊出生率(女性1人が生涯に産む子どもの数の推計)は、2021年に2.11、2022年に2.01、2023年に1.96、2024年に1.91。2024年の値は記録が残るなかで最低でした。
人口を維持するのに必要な水準は、おおよそ2.1とされます。ベトナムは2022年にこのラインを割り込み、そのまま下がり続けていました。
2025年は1.93とわずかに戻しています。34の省・中央直轄市のうち20で上昇しました。ただ、これを反転と呼ぶには小さすぎる動きです。
国の中に、別の国がある
全国平均の1.93は、実はかなり異なる二つの世界を足して割った数字です。
2025年の省別で最も低かったのはホーチミン市で1.51。最も高かったのは北西部の山岳地帯にあるディエンビエン省で2.91。同じ国のなかで、2倍近い差があります。
1.51は、日本(2024年で1.15)より高いものの、方向としては東京に近い側にいます。2.91は、人口が自然に増えていく社会の数字です。
なお、ホーチミン市は2025年7月の省の統合でビンズオン省・バリア=ブンタウ省と一つになったため、統合前の数字とそのままは比べられません。郊外の工業地帯を抱え込んだあとでも1.51、という点に注目すると、都市化と出生率の関係がよく見えます。
都市の若い夫婦が子どもを1人で止める理由は、どこの国でも似ています。住居が狭い。教育費が高い。共働きで手が回らない。ベトナムの場合、ここに放課後の塾通い(ジャースー)が当たり前という教育競争が加わります。子ども1人あたりにかける金額が上がれば、人数は減ります。
産むなと言っていた国の論理
規定が撤廃されたことより、規定がそれまで残っていたことのほうが、この国の歴史を語っています。
戦争と貧困から立ち上がろうとしていた時代のベトナムにとって、人口の急増は食料・教育・雇用のすべてを圧迫する要因でした。だから国は、子どもの数に上限を設けた。
この政策は、効きすぎたと言えます。
2021年の2.11は、ちょうど人口置換水準のあたりです。「多すぎず少なすぎない」状態にいると、規定を見直す切迫感は生まれにくい。2.0から1.9への変化は、数字の上では小さく見えます。
ブレーキを踏み続けて車速がちょうどよくなったとき、すぐに足を離す運転手はあまりいません。ベトナムが足を離したのは、速度計の針が下がり始めてからでした。
2026年7月からは「産むと得をする」法律へ
撤廃のあとに来たのが、新しい人口法(法律番号113/2025/QH15)です。2025年12月10日に国会で可決され、2026年7月1日に施行されました。人口令はこの法律に置き換わります。
報道によれば、この法律には次のような内容が盛り込まれています。
- 2人目を出産した女性の産休を7か月に
- 男性の育児休暇を10労働日に
- 35歳までに2人の子どもを産んだ女性への金銭的支援
- 子どもが2人以上いる世帯への社会住宅の優先
- 出生率が置換水準を下回る地域での支援
つまり、規制の撤廃(産んでもいい)から、誘導(産むと得をする)に一段進んだことになります。
同じ法律は、胎児の性別による選別を禁じ、性別を告げて中絶につなげた医療者には免許の取り消しという重い処分を定めています。男児を望む傾向から、ベトナムでは出生時の男女比が男児に偏っていることが長年の課題でした。人数を増やしたい政策と、男女比を正したい政策が、一つの法律に同居しています。
在住者の生活のどこに触れるか
人口政策は遠い話に見えますが、在住者の日常にもいくつかの接点があります。
職場の休暇制度。ベトナム人スタッフを雇う立場なら、2人目出産の産休7か月と男性の育休10日は、人員計画に直接響きます。施行は2026年7月からなので、今後1〜2年で該当者が出てくる時期に入ります。適用の細則は政令で詰められていくため、社内規定の見直しは顧問の会計事務所や法律事務所に確認するのが確実です。
産科医療の現場。性別の選別を防ぐための規制は、妊婦健診での性別の伝え方にも影響しうるものです。現地の病院で健診を受ける場合、病院ごとの運用を最初に確認しておくと戸惑いが減ります。
社会の時間軸。人口ボーナスが2036年に閉じるという推計に対して、出生率の回復が間に合うかどうか。今日生まれた子どもが働き手になるのは20年後です。人口政策は、効果が出るまでに一世代かかる政策でもあります。
号令で増やせるのか
減らす政策と増やす政策は、対称ではありません。
減らすほうは、罰則や社会的圧力で比較的効きます。増やすほうは、そうはいかない。子どもを持つかどうかは、住居、収入、働き方、教育費、そして将来への見通しの総和で決まるからです。日本を含む東アジアの国々は、出産奨励策を重ねながらも、出生率を大きくは戻せていません。
ベトナムの1.93は、それらの国より高い位置にあります。下がりきる前に手を打った、という見方もできます。
一方で、ホーチミン市の1.51は、都市がどこへ向かうかを先に示しているようにも見えます。全国の都市化が進むほど、平均はこの数字に引っ張られていく。
ハノイやホーチミンの朝、子どもを前に乗せて走るバイクの数は、まだ日本の都市の比ではありません。その光景が10年後にどれくらい残っているかは、2025年の方針転換がどこまで効くかで決まってきます。
出典
- 合計特殊出生率(2021〜2024年)・人口令改正: Dtinews(VOV引用)、VOV
- 2025年の出生率・省別データ: ベトナム政府ポータル(Baochinhphu)
- 人口法(113/2025/QH15)の内容: サイゴン解放紙(SGGP)