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各階に止まらないエレベーターがあった国——後付け工事が変えたHDBの生活

古いHDBのエレベーターは全ての階に止まらなかった。後から各階停止を実現する大規模な工事が進められた背景には、高齢化と「住み続けられる住宅」という発想がある。

2026-09-11
HDBエレベーター高齢化住宅政策シンガポール

この記事の日本円換算は、1SGD≒125円で計算しています(2026年6月時点)。為替は変動するので、現地通貨(SGD)の金額を基準にしてください。

古いHDBのエレベーターは、全ての階には止まりませんでした。

数階おきにしか停止しない設計で、住民は最寄りの停止階で降りて、階段を上り下りする。建設コストを抑えるための割り切りで、多くの国の集合住宅でも見られた方式です。若い家族が住んでいる間は、階段一つ分の上り下りは大した問題ではない。

問題は、その家族がそこに住み続けたときに起きました。

建物より先に、住人が歳を取る

HDBは長期のリースで供給され、多くの人が同じ住戸に何十年も住みます。建てた当時に30代だった住民は、40年後には70代になっている。

膝が悪くなる。荷物が重く感じる。車椅子が必要になる。数階分の階段が、若い頃には存在しなかった壁として立ち上がる。買い物に出るのが億劫になり、外出が減り、家に閉じこもる。建物は何も変わっていないのに、住みにくさだけが増していく。

これは設計の失敗というより、時間の問題です。建物の寿命と人間の身体の変化がずれている。40年前の設計者が想定した「標準的な住民」は、40年後にはもう存在しない。

後から工事をするという判断

普通、この種の問題への対応は「建て替え」か「引っ越し」です。古い建物を壊して新しく建てる。あるいは住民がバリアフリーの物件へ移る。

シンガポールが大規模に進めたのは、そのどちらでもなく、既存の建物にエレベーターを後付けする工事でした。全ての階に止まるようにするために、既存のシャフトを改造したり、建物の外側に新しいシャフトを増設したりする。

これは技術的にかなり厄介な工事です。人が住んだまま、構造体に手を入れる。建物ごとに階段や廊下の形が違うので、標準的な設計をそのまま当てはめられない。工期は長く、騒音も出る。それでも建て替えより安く、住民を動かさずに済む。

大きなコストを国が相当部分負担する形で進められました。住民が負担する分はタウンカウンシルが集める管理費や改修の分担金として請求されます。制度の詳細や費用負担の割合は変更されうるので、現在の内容は公式情報で確認してください。

「引っ越さなくていい」ことの価値

この判断の背景にあるのは、住民をその場所に留めることの価値です。

高齢者にとって、住み慣れた場所を離れることは大きな負担になります。近所の知り合い、通い慣れた店、覚えている道順。それらは高齢になるほど代替が難しくなる。新しい便利な家に移っても、そこに人間関係はありません。

エレベーターを後付けするという選択は、建物を直すことで人間関係を守る工事だとも言えます。船を修理するのに、乗組員を降ろさずにやる。効率だけを見れば非効率でも、失われるものを含めて計算すると割に合う。

街の風景に残った痕跡

この工事の結果、古いHDBの外側に、明らかに後から付け足された細長いシャフトが立っている棟が見られます。

元の建物と色や質感が違い、いかにも増築という見た目をしている。デザインとしては美しくありません。けれどあの継ぎ足しは、この国が「建てたものを維持し続ける」ことに投資してきた証拠でもあります。

新しく建てるほうが、写真映えもするし、政治的な成果としても見せやすい。地味な改修を大規模にやり続ける選択は、目立たない。

在住者が見ておくと面白いもの

賃貸でHDBを探すとき、エレベーターが各階に止まるかどうかは実用的な確認事項です。古い棟では、いまも停止階が限られている場合があります。内見のときに実際に乗ってみるのが早い。住まい探しの全体の流れやHDBとコンドの構造的な違いと合わせて見ておくと、判断がしやすくなります。

そしてもし、外付けのシャフトが立っている棟を見かけたら、それは40年前の設計と現在の住民のずれを、工事で埋めた跡です。住宅政策を建設の話としてだけでなく、その後の何十年を含めた維持の話として見ると、この国の団地の風景は少し違って見えてきます。

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